フィンランドの総合学校は、平等の精神と「どんな子供も置き去りにしない」という理想を持っている。全ての人間の考える力を育む教育である。これに対置されるものは、フレデリック・テイラー以来の科学的管理法だ。そこでは大量生産を可能にするために、計画と実行が明確に分離される。計画部門だけが思考を巡らすことを許され、それ以外は「質問を挟むことなく、意見をすることなく」従うことが仮定される。
そこは結果が全ての世界だ。どれだけ生産したか、どれだけ稼いだか。数字で計ることが出来ることが評価基準の全てである。大量生産時代の教育は、結果、すなわちテストの点数のために教育がなされることになる。成績が主、人が従なのである。教育の準備や生徒とのインタラクションではなく、採点と報告の作成が教師の主要な仕事となる。
Graham & Neu(2004)p.310では、「特定のテストの結果についての議論がいくら白熱しようとも、結局のところ、その議論はテストに対してであって教育に対してではない」と批判する。Charles Leadbeater(Leadbeater(2002)p.24)は、「目標重視の文化は変化の敵になりつつある」とする。著者等は、現在の大学システムを「イノベーションシステムのボトルネック」だと断罪する。
クーシ(Pekka Kuusi)は、『1960年代の社会政策(60-lubun sosiaalipolitikka)』 という著書において、「民主主義、社会的標準化と経済成長は、現代社会において肯定的な方法で互いに結びついているようだ」と、統一国家に対して必要条件としてみなされる福祉国家と社会的標準化について定式化した(Kuusi(1961)p.8)。
変化の時代、結果のみを追求する古い教育は時代遅れになりつつある。結果の重視は弱者に厳しく、強者のみを優遇する。変化の時代に経済成長をなすためには、フィンランドのように弱者を底上げし、イノベーションを起こせばよい。
金谷治(1966)は『孟子』で、孟子の思想の万事の根本は「忍びざるの心」すなわち他人の不幸をそのままで見過ごすことのできない同情心だとした。人としての原点への回帰。変革の時代の変わらない指針は、愛、仁、慈悲に裏打ちされた対話であろう。
参考:
レイヨ・ミエッティネン(2010)『フィンランドの国家イノベーションシステム』新評論
指導教官、森勇治先生の訳書です。