学舎は十畳と八畳の二間の小さな建物があるだけ。松陰が教えた期間はわずか2年半。しかしそんな塾から伊藤博文ら内閣総理大臣2名、国務大臣7名、日大、国学院等の大学創設者2名、久坂玄瑞や高杉晋作らの風雲児が輩出された。塾生ではなかったが松陰に門人の礼をとり続けた人物に、維新三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)もいる。
ご存知の通り長州は維新の最大の革命勢力だった。ただし司馬遼太郎は『世に棲む日々』で、「それも、松陰以後である」ことを指摘している。
学問への燃えたぎる情熱は、生きて出たものがいないと言われた野山獄の中にあって1年2か月の間に600冊の本を読破、抄録を行わせる。そして驚くべきことに、粗野な囚人達をもまとめ上げてしまう。囚人たちだけではない。牢番、さらに野山屋敷の役人までも廊下に端座して彼の講義に集まった。
こうした奇跡を可能にした彼の教育とはいったいどのようなものだったのか。いかにしてそこまでの影響を及ぼし得たのか。ひとつの考察を試みたい。
彼の教育を語る上で外すことが出来ないものに、こんな言葉がある。江戸時代の人間関係は上下関係を非常に重んじた厳しい縦社会だった。実際、長州の藩校、明倫館は士族しか入学できない。しかし松陰は当時の常識を打ち破り、身分をすべて無視。門下生は全て対等の友人とし、重要視されていた縦の関係を、横の関係に変えた。自身も、生徒を弟子と言わずに友人と呼んだ。呼び捨てにせず「~さん」と呼んだ。松陰は弟子入りの希望者が来ると「私は教えることは出来ませんが、一緒に学ぶことが出来ます。共に励みましょう」。そう言った。
共に学ぶと聞くと、優しい人柄のイメージが湧くかもしれない。だが松陰自身、誰よりも学ぶことに真剣だったことを忘れてはいけない。命をかけていたと言ってもいい。
例えばこんな逸話が残っている。松陰が捕えられていた野山獄の中に、富永有隣という儒者がいた。性格が片意地で人から疎まれており、それが災いして獄中にいなければならなくなった程の男であるが、書に秀でていた。誰もが煙たがる有隣に対して、松陰はこう言う。 「富永殿を師にして書を学びたい」
嫌がる有隣を説得して無理やりその弟子になる。よほど学び方が良かったのだろう。他の囚人も有隣に師事し、「先生」と呼ぶようになった。 他人に”師”として存在を認められたことによって、有隣の心に自重自愛の気持ちが働き始める。有隣は、やがて松陰を「尊師」と呼ぶようになった。
「以前から俳句を学びたいと思いながら、その機会がなかった。だから、この機会に俳句をならいたい」とも、松陰は言った。在獄7年の49歳の元寺子屋の師匠が、俳句が出来た。こうして俳諧の勉強会が出来た。
やがてほとんどの囚人が、何かの師匠になり、お互いに日を決めて師匠になったり、弟子になったりした。松陰は在獄期間中、この調子で勉強をつづけた。囚人たちは学ぶことに興味を持ち始め、獄中の雰囲気は一変した。人生に絶望していた連中が、勉強を通じて希望を持ち始めたのである。
松陰が重視した儒教。儒教の本質は礼である。そして学問を修めるために必要な前提、それが礼である。頭を下げなければ学ぶことは出来ない。通常、礼は師、すなわち強者に対して向けられる。しかし松陰は弟子や囚人に対しても礼を尽くした。弱さに礼を尽くす。鬼神を震わせる唯一の道である。
虐げられた人々に示された礼は、絶望に魂を宿らせる。その志こそ維新を起こし、単なる世界の片隅の未発達の島国に、列強と対等の渡り合いを可能にさせた。
事の帰結はこうであろう。「無上の教師とは、弱さに礼を尽くす至極の学び手である」。
参考: 『覚悟の磨き方』 『名言セラピー 幕末スペシャル』 『吉田松陰 松下村塾 人の育て方』 『世に棲む日々』