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もう一つのビリギャル物語

少し前、書籍『ビリギャル』のアマゾンレビューはひどい状態だった。やっかみで罵詈雑言の嵐だったのだ。「進学校だったから最初から頭が良かった」「慶応SFCは2教科入試で簡単」。東進の林先生でさえ「SFCなら合格して当たり前」とおっしゃるほどだった。

恐縮だが私は塾を運営させていただいているほど、学生時代から「頭いいキャラ」だった。しかし3年間の浪人を経験している。代ゼミのカリスマ教師にずっと教えていただいても、その体たらくだ。3浪目は1日16時間勉強したが第一志望に不合格。第二志望には合格したが、しばらく精神がおかしかった。それだけ勉強した。そしてそれだけやって合格できなかった第一志望がSFCだ。だから私は勉強面での彼女の快挙を理解しているつもりでいる。林先生のような東大楽勝の秀才なら慶応も簡単かもしれないが、普通の人では無理だ。

ビリギャルさんの凄いところは、そんなものではない。家族すら治ってしまった。私も死ぬほど勉強したが、当時家族は不和なままだった。その違いは何処にあるのか。実はそれは、ビリギャルの母、「ああちゃん(橘こころさん)」の書籍に詳しい。

この本だ。

『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』

生い立ちは壮絶。華族を家系図に持つ家庭に生まれ、こころさんの母親は果てしなく優しく、同時に果てしなく厳しい人だ。母の姉はミスコンで優勝する美貌。しかし「美貌のために妹が苦労をするのは当然」。食糧難の時代、やっとのことで母が工面した金をむしり取り、ビフテキを食べていた。母の兄も、やっと掴んだ母の幸せな結婚を破たんさせる。

その兄の借金の話し合いに反社会勢力の方の事務所に赴くこともあった。母はこころさんを連れて行く。惨状が凄い。脱走しないように頭を剃られ、鎖でつながれた女性がお客を相手にするときだけ、かつらをかぶらされていた。怒号が飛び交う中で、大の男の兄が身ぐるみをはがされ、謝りながら泣き叫んでいたという。

しかし母は毅然と話し合い、その後も兄弟たちに思いを重ね続ける。損得勘定抜きで付き合い続け、尽し続けた。全て他人が優先。自分の事などお構いなしだ。この気持ちはああちゃんに遺伝し、ご存知の如く映画にすらなった。

しかし母の果てしない厳しさは、ああちゃんを危機にも陥れた。教育の制度が悪かったのだろう。あまりに厳しく重いしつけは彼女をがんじがらめにし、失敗に失敗を重ねさせることになる。

ああちゃんの子育てでも、悪い面が顔をのぞかせてしまう。母と同様、スパルタこそ愛情。そう信じていた。その結果、暴れまくる長男、気持ちがふさがってしまう長女、悪循環に悪循環が重なる地獄に嵌っていった。

『ビリギャル』を読ませていただき、私はああちゃんのことを最初から無限の愛の持ち主、子育ての達人だったのではないかと捉えていた。しかし彼女もかつては子育ての失敗者だった。そこから学び、皆の力を合わせ全てを立ち直らせてゆく。

転換を果たすきっかけとなる最高の教師は、やはり母だった。艱難を超えた後の母には不思議と幸運が次から次へと舞い込んできた。人間関係でも金銭面でも。だからああちゃんは損得勘定を全く考えなくなった。講演会で購入した私の本には直筆でこうメッセージを頂いた。「ただひたすらで馬鹿みたいな愛と思いやりで人生は明るく開けていくと思います」。「それだけで生きて行ける。他には何もいらない」。彼女はそう断言する。

例えばどう再生したか。長男は幼稚園で、みんなが行列をしているのにパンツを脱いだり友達にボールをぶつけたり繰り返す。とにかく問題行動が止まらない。しかし絶対に悪い子ではないと、それだけは確信し観察しつづける。するとただ、長男はみんなに笑ってほしかったのだという事実を突き当てる。「先生がみんな怒っていたから、笑ってほしかった」。だからおどけていたのだという。

もちろん簡単ではない。長男が立ち直り始めたのは高校の頃である。10数年ずっと信じ心を重ね続けたのだ。そして今、父の会社を継ぐため仕事と勉強に励んでいる。ビリギャルさんは言う。「弟が一番すごいかも」。

こころさんはこう言う。

「信じ切れたから、(子供がどんなに)自由にしても許せた。信じ切ることが出来れば、自由を与えることが出来る」。

「絶対に悪い子などではない」。子供を信じ切ることが出来たら、「問題」の中に長男の優しさを見つけることが出来た。信じ切ることが出来たから、問題児という檻から長男を自由にしてあげることが出来た。そして信じ切ることが出来たから、果てしなく尽くし続けることが出来た。

モルヒネという薬物がある。もちろん中毒を引き起こす麻薬だが、不思議なことに病院で使用しても中毒を引き起こすことはない。実は用法の違いなどではなく、中毒になる人はごく少量でも中毒になってしまうのだ。Bruce K. Alexanderという心理学者はこの疑問を解明するため、モルヒネ中毒になるマウスとならないマウスの研究を行った。そして極めて有用な洞察を得る。檻に閉じ込められてモルヒネを与えられたマウスは中毒になるが、閉じ込められていない、広い世界につながったマウスはいくらモルヒネを与えられても中毒になることはないのだ。世界につながっていれば中毒にはならない。中毒の反意語は社会性なのである。

人はさまざまな中毒に陥る。学生ならばソーシャルゲームや問題行動、さらには異性関係、アルコール、麻薬に至るまで。もしそこから解放する手段があるとすれば、それは疑いを核にした頭ごなしの叱責では決してない。全くの逆だ。損得勘定をかなぐり捨て、彼を信じ切る。不信感を引き起こし続ける彼を逆に信じ切ることにしかない。

『論語』(里仁第四 73節)にこうある。

過(あやま)ちを観(み)て斯(ここ)に仁(じん)を知る。

「過ちの中にこそ、その人の本当の優しさが現れる」。ああちゃんはこの言葉を具現化し、家族を再生させた。その檻から出して自由にしてやる。学生もそうだが、起業家などこれが必要な典型例だろう。問題児の提出する問題は、全ての損得勘定を抜きにし、彼の闇の中に潜む光を見つけられた時に解くことが出来る。その解答は、次の社会の檻を開く勇気と救いへと育ってゆく。

今、『ビリギャル』のレビューはほとんど好意的なものに変わっている。本当の気持ちを持ってすれば思いやりを引き起こさないことなどないのだろう。

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